always over the moon

義母の他界

4月22日の夜のことです。
義母は腹部の痛みに耐えられず、ドクターを呼びました。
ドクターがドアをノックすると、義母の
「ドアのすぐそばにいるのだけれど、起き上がれない」
という声。
ドクターはポリスに連絡。
ポリスが家のドアを破って、義母を救出し、救急車で病院へ。

翌朝23日、ドクターは次兄に(彼はその救急病院で介護士をしています)、義母の危篤を告げました。
まだ夫は眠っていたのですが(前夜遅くまでパブのハシゴをして深酔い状態)、
次兄の電話に飛び起き、駆けつけました。
長兄はスコットランド、三兄はロンドン、四兄はアイルランド、姉はロンドンの南。
全員が揃うまで、もたないだろうとドクターは言いましたが、夕方五時から六時にかけて、
兄弟全員が病室に来るまで、義母の体調は小康状態だったそうです。
その間、ずっと一人で義母を見守っていた夫は、義母が奇跡的に回復すると信じていました。

私も病院の場所がわかれば、義母に逢いに行けたのです。
夫の携帯電話の番号が判れば訊くこともできたのですが、番号はまだ教えてもらっていませんでした。
家中の書類や請求書を漁って確認したのですが、どこにも夫の携帯電話の番号は書いてなかった。

また、その反面、義母の死に面と向かう勇気がありませんでした。
一人、部屋の中で、泣きながら、義母の無事を祈っていました。
なにしろその翌日、夫とともにブダペストに発つ予定でしたし、
どうすればよいのか、頭も混乱していました。

深夜になって、夫が病院から帰宅し、他の兄弟で交替で看護をする、
みんな私たちは予定通り、ハンガリーに行くべきだと言ってくれたと。

そして24日の朝。後ろ髪を引かれる思いで、夫とともに飛行機に乗りました。
リヴァプールの空港から姉に電話をして様子を訊くと、「かわりない」ということ。
もしかして、回復してくれるのでは・・・と期待が胸をよぎりました。

f0053297_330670.jpg


義母が亡くなったのは、ちょうど私たちがブダペストの空港に着陸した時でした。
まるで、私たちが無事にブダペストに着くのを確認したかのように。



さきほど、長兄に電話で聞いたところ、お葬式は5月5日になったそうです。
夫の帰国予定が5月4日なので、それまで待ってくれたのでしょう。
私は、明日のインタビューの折に、パスポートを提出してしまうので、帰ることができません。

それとも、ビザを諦めて、夫と一緒に帰って、お葬式に出席しようか。。
けれど、そんな無理をしても、義母は喜んではくれないでしょう。

義母の死を知っていらい、夫は手のつけられない状態になっています。
私の泣き方が少ない、日本人はそんなに薄情なのか、義母が死んだというのに、悲しくないのか。
号泣しろ! それができないなら殺してやる!
首を絞められ、苦しくてもがいてもがいて、死に物狂いで夫に噛み付いたら、やっと手を放してくれました。
普段から飲んでばかりいる人ですが、今は義母の死というエクスキューズもあり。。
これから先、どうなってしまうのか。
夫は、もう生きていても仕方がないから、全財産を飲みつくして死ぬと言っています。
リヴァプールに越してきて、さてこれから親孝行をしようかという、まさにその矢先だったのです。
夫がもぬけの殻になるのも、判らないでもない。

私はただただ茫然としています。
欧米の映画のシーンのように、夫をハグして、慰めなければならないと判ってはいますが、
暴力に訴えてくる夫に、どうしても優しくすることができません。
それに私の日本人の血が、そうすることに恥じらいと躊躇いを感じてしまうのです。
冷たい女だと罵られても。。

私だって、義母を失ってショックですし、とても悲しいのです。
夫と喧嘩をするたびに、いつも私の味方になってくれた義母。
一緒に旅行に行ったり、勉強したり、短期間ですが同居もしていて、良い思い出も沢山あります。

愛する人を失った悲しみはそう簡単には癒えるものではありません。

でも、冷静に考えてみれば、義母はやっと義父と再会できて、病気の苦しみ痛みからも解放され、
軽やかな魂として、自由にどこへでも行けるようになって、ハッピーかもしれません。

夫の哀しみ、喪失感は、きっと時間が解決してくれる。
そう信じましょう。



[PR]
by mariko789 | 2016-04-28 04:05 | olympus OM-D E-M5 | Trackback
トラックバックURL : http://mariko789.exblog.jp/tb/25165028
トラックバックする(会員専用) [ヘルプ]